「歯肉炎とは?」—初期の炎症を見逃さず健康な歯ぐきを守るために
第1章 歯肉炎とは?―歯を支える土台に起こる“静かな炎症”
歯肉炎(しにくえん)は、歯と歯ぐきの境目に細菌が繁殖して炎症を起こした状態を指します。
歯を支えるのは、歯槽骨(しそうこつ)・歯根膜(しこんまく)・セメント質・歯肉から成る「歯周組織」です。その中で最も外側に位置する歯肉は、細菌や外的刺激から歯を守る“防波堤”のような役割を果たしています。
しかし、歯みがきが不十分でプラーク(歯垢)が溜まると、歯肉の防御が破られ、炎症が生じます。これが歯肉炎です。
初期の歯肉炎は「歯ぐきの腫れ・出血」程度の軽い症状で、痛みがほとんどないため放置されやすいですが、そのまま進行すると**歯周炎(ししゅうえん)**へと悪化し、歯を支える骨が破壊されてしまいます。
つまり歯肉炎は、歯周病の入口であり、早期対応が何よりも重要な段階です。
第2章 歯肉炎が起こるメカニズム
歯肉炎の発症には、主に細菌の活動と宿主(人間)の反応が関係しています。
歯肉炎の病態をもう少し専門的に説明すると、以下のような流れで進行します。
1. プラーク(歯垢)の形成
歯の表面には、唾液中のタンパク質が薄い膜「ペリクル」を形成します。
その上に口腔内常在菌が付着して**バイオフィルム(生物膜)**を作り出します。これがプラークです。
プラーク中には、**ミュータンス菌や歯周病原菌(P. gingivalis, T. forsythiaなど)**が含まれ、時間とともに毒素(エンドトキシン)を放出し、歯肉を刺激します。
2. 免疫反応の発動
細菌の侵入に対して、白血球やマクロファージが反応し、炎症性サイトカイン(IL-1β、TNF-αなど)が分泌されます。
これにより、血管が拡張し、歯ぐきが赤く腫れるのです。
3. 炎症の慢性化
清掃不良が続くと炎症が慢性化し、線維芽細胞やコラーゲンが破壊され、歯肉の形態が変化します。
炎症は歯肉にとどまらず、やがて歯根膜・歯槽骨へと波及し、歯周炎へと進行します。
第3章 歯肉炎の原因 ― 日常生活の中に潜むリスク要因
歯肉炎は、「プラークによる細菌感染」を主因としながら、生活習慣・全身状態・ホルモン・環境など多くの要素が絡み合って発症します。
1. プラーク・歯石の蓄積
プラークは歯ブラシで容易に除去できますが、取り残すと唾液中のカルシウム成分と結合して**歯石(しせき)**になります。
歯石は非常に硬く、歯ブラシでは落とせず、表面に細菌がさらに定着して炎症を慢性化させます。
2. 不適切な歯みがき習慣
磨き残しが起こりやすい場所:
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奥歯の内側
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歯並びが重なっている部分
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歯と歯ぐきの境目
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ブリッジ・矯正装置の周囲
磨き残しが長期間続くと、局所的に炎症が起こります。
3. 歯並び・噛み合わせの不正
歯列が乱れているとブラッシングが難しくなり、プラークが溜まりやすくなります。
また、不適切な咬合力(強すぎる咬みしめ・歯ぎしりなど)も歯肉への負担を増やします。
4. ホルモン変動
思春期・妊娠期・更年期では、ホルモン(特にエストロゲンやプロゲステロン)の影響により、歯肉が炎症を起こしやすくなります。
特に妊婦さんの約5〜7割は妊娠性歯肉炎を経験するといわれています。
5. 全身疾患
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糖尿病:免疫機能の低下・血流障害により炎症が悪化
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白血病:歯肉出血・腫脹が現れやすい
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ビタミンC欠乏症:コラーゲン生成が障害され、歯肉がもろくなる
6. 生活習慣
喫煙・睡眠不足・ストレス・偏食なども歯肉の免疫力を低下させる要因です。
第4章 歯肉炎の症状 ― 「出血」は重要なサイン
歯肉炎は初期では痛みが少なく、気づかないうちに進行します。
次のような症状が見られたら、早期の受診が推奨されます。
【初期段階】
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歯ぐきの色が淡いピンクから赤色に変化
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歯ブラシやフロスで出血
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歯ぐきが少し腫れて丸みを帯びる
【中期段階】
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歯ぐきの腫れが強く、歯が短く見える
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口臭が気になる
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歯間に食べ物が詰まりやすい
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冷たい水でしみる
【重度段階】
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膿が出る・動揺がある
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歯ぐきの退縮(歯が長く見える)
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咬合時の違和感
【患者さんの例】
50代男性。長年喫煙し、出血を「年齢のせい」と放置。
歯科受診時には前歯の歯ぐきが腫れ、歯石がびっしり。
スケーリング後、禁煙と正しいブラッシングを実践し、3ヶ月後に炎症が改善。歯周ポケットも3mmから2mmに回復しました。
第5章 歯肉炎の検査と診断
歯科医院では、以下のような検査を行い、炎症の範囲と進行度を評価します。
1. プロービング検査(歯周ポケット測定)
専用のプローブ(歯周ポケットを測る器具)を使って、歯と歯ぐきの間の深さを測定します。
健康な歯ぐきは1〜2mm、歯肉炎で3mm前後、歯周炎になると4mm以上の深さになります。
2. 出血(BOP:Bleeding on Probing)
プロービング時に出血するかどうかを確認します。
出血がある=炎症が存在しているサインです。
3. プラークスコア(Plaque Control Record)
染め出し液で歯の汚れを可視化し、磨き残し率を数値化します。
目標は20%以下です。
4. レントゲン検査
歯槽骨の吸収や歯根膜の変化を確認。歯周炎との鑑別に用います。
第6章 歯肉炎の治療法 ― 「炎症源を断つ」ことが基本
歯肉炎の治療は、プラーク・歯石の除去と正しいセルフケアを中心に行います。
1. スケーリング(歯石除去)
超音波スケーラーやハンドスケーラーを用いて、歯の表面・歯ぐきの中にある歯石を除去します。
歯石が取れると、炎症は1〜2週間で改善することが多いです。
2. ルートプレーニング(歯根の滑沢化)
歯周炎に進行している場合、歯根表面の汚染部分を除去し、再付着を防ぎます。
3. ブラッシング指導
歯科衛生士による個別指導で、磨き残しを減らすための正しい歯みがき方法を練習します。
4. 薬物療法
炎症が強い場合、抗菌薬の局所塗布やうがい薬(クロルヘキシジン、ポピドンヨード)を使用します。
5. 生活習慣改善
禁煙・バランスの取れた食事・規則正しい生活リズムが再発防止に役立ちます。
第7章 歯肉炎と全身の関係 ― 口の炎症は全身の健康にも影響
歯ぐきの炎症は、実は口の中だけの問題ではありません。近年の研究では、歯周病菌や炎症性サイトカインが血流を介して全身に影響を及ぼすことが明らかになっています。
1. 糖尿病との相互関係
歯肉炎による慢性炎症がインスリン抵抗性を高め、血糖コントロールを悪化させます。
逆に、糖尿病があると炎症が治りにくく、悪循環を招きます。
2. 心血管疾患との関連
歯周病菌が血管内に侵入し、動脈硬化や心筋梗塞のリスクを高めると報告されています。
3. 妊娠への影響
妊娠性歯肉炎を放置すると、早産や低体重児出産のリスクが高まる可能性があります。
4. 認知症・誤嚥性肺炎との関連
高齢者では、歯周病菌が口腔内から気道に入り、肺炎や脳血管障害を引き起こすことが知られています。
つまり、歯肉炎を防ぐことは「全身の健康を守る第一歩」でもあるのです。
第8章 思春期性歯肉炎とは
1. 思春期性歯肉炎の概要
思春期性歯肉炎とは、**中学生〜高校生頃(10〜18歳)**に多く見られるホルモン性歯肉炎の一種です。
この時期の男女は成長ホルモンや性ホルモンの分泌が活発になり、歯ぐきの毛細血管が拡張して炎症を起こしやすくなります。
2. 原因
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プラークの蓄積にホルモンの変化が加わる
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女性ではエストロゲンの増加により歯ぐきが敏感に
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男性ではテストステロンの変化による血流変化
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不十分なブラッシングによる清掃不良(特に矯正治療中など)
3. 症状の特徴
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歯ぐきの赤み・腫れ・出血
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痛みよりも「むずむず感」や「歯ぐきの張り」
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歯と歯の間(歯間乳頭部)が特に腫れやすい
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歯列矯正装置の周囲で悪化しやすい
4. 治療と予防
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正しい歯みがき習慣の確立
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定期的な歯科でのクリーニング
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矯正中は専用ブラシやフロスを活用
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バランスの良い食生活(鉄分・ビタミンCを意識)
患者さんの例
15歳女子:矯正治療中に歯ぐきの腫れと出血が発生。矯正装置まわりにプラークが溜まっていた。
→ブラッシング指導と2週間のクリーニングで改善。
このように、思春期の歯肉炎は一時的なホルモン変化に加えてセルフケア不足が重なると悪化します。
第9章 妊娠性歯肉炎とは
1. 妊娠中に起こる歯ぐきの変化
妊娠性歯肉炎は、妊娠初期〜中期(特に2〜8か月)にかけて発症しやすい炎症です。
妊娠中は**女性ホルモン(エストロゲン・プロゲステロン)**の分泌が最大で10倍以上に増加します。
これらのホルモンは血管透過性を高め、歯ぐきが「炎症を起こしやすい状態」に変化します。
そのため、同じ量のプラークでも、妊娠中は強く腫れてしまうのです。
2. 原因
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ホルモンバランスの変化による免疫低下
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つわりによるブラッシング不足
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食生活の変化(間食・酸性食品の摂取)
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唾液量の減少と口腔内のpH変化
3. 症状の特徴
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歯ぐきが赤く腫れる
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歯みがきで出血しやすい
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口臭や粘つき感がある
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一部に「妊娠性エプーリス(歯肉のこぶ)」ができることも。(妊娠性エプーリスとは、ホルモンの影響で局所的に歯肉が増殖することがあり、ピンク色のこぶのように見える場合があります。
通常は出産後に自然に縮小しますが、出血や違和感が強い場合は歯科で相談が必要です。)
4. 胎児への影響
重度の歯周病に進行すると、早産・低体重児出産のリスクが高まると報告されています。
歯肉炎自体が直接の原因ではありませんが、炎症物質が血流を通して全身に影響を与えるため、注意が必要です。
5. 妊娠中のケアと治療
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妊娠中でも歯科受診は可能で安全(安定期が理想)
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超音波スケーラーによるクリーニング
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妊娠期用の低刺激歯磨剤を使用
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食後のうがいや水分補給を意識
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つわり時は無理にブラッシングせず「液体ハミガキ」で代用可
患者さんの例
30代女性(妊娠5か月):つわりで歯みがきができず、出血と腫れが悪化。
→歯科医院で歯石除去とブラッシング指導を受け、出産前には健康な状態を維持。
妊娠中でも適切なケアを行えば十分にコントロール可能です。
妊娠中の口腔ケアが難しい理由
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つわりで歯ブラシの味やにおいに敏感になる
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嘔吐反射で奥歯が磨けない
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炭水化物中心の食生活に偏りやすい
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唾液の酸性化により口腔内が虫歯・炎症の温床になる
妊娠中の歯科治療の安全性
妊娠中でも歯科治療は安全に行えます。
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理想の時期:妊娠中期(安定期)
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避けたい時期:初期(つわりが強い)・後期(体勢が苦しい)
麻酔やレントゲンも、必要に応じて妊婦に配慮した方法で行えます。
妊娠中のセルフケア
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軽いブラッシング+水やうがい薬で補助
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フッ素入りマウスウォッシュの活用
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就寝前の歯みがきを徹底
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妊娠中の栄養バランス(カルシウム・ビタミンC・タンパク質)を意識
妊婦健診との連携
自治体の妊婦健診には「歯科健診」が含まれる地域もあります。
この健診で歯肉炎を早期に見つけることで、母体・胎児への影響を最小限にできます。
第10章 その他の歯肉炎のタイプ
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薬物性歯肉炎:抗てんかん薬や免疫抑制剤などで歯ぐきが増殖し、腫脹する。
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全身疾患に伴う歯肉炎:糖尿病や白血病などの基礎疾患が原因。
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口呼吸性歯肉炎:口呼吸による乾燥が原因で慢性化。
第11章 歯肉炎の予防 ― 日々の積み重ねが最大の治療
歯肉炎は、日常のセルフケアと定期検診で防げる病気です。
1. 正しい歯みがきのポイント
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毛先を歯と歯ぐきの境目に45度で当てる
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小刻みにやさしく磨く(強くこすらない)
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1日2〜3回、1回3分以上
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歯と歯の間や境目は歯ブラシだけでは磨き残しが多い部分は、歯間ブラシ・フロスを毎日併用する。
2. 食生活
ビタミンC・カルシウム・タンパク質をバランス良く摂取。
砂糖を多く含む飲食物の摂りすぎはプラークを増やします。
3. 定期検診・クリーニング
3〜6ヶ月ごとの**PMTC(専門的機械的歯面清掃)**を受け、プラーク・歯石を定期的に除去しましょう。
4. 禁煙
喫煙は歯ぐきの血流を悪化させ、治癒を遅らせます。
禁煙後は歯肉の色が健康なピンクに戻るケースも多く見られます。
第12章 年代別・状況別の歯肉炎対策
子ども・思春期
磨き残しが多く、思春期ホルモンの影響で炎症が出やすい。
→ 歯磨き習慣の確立・定期的なフッ素塗布が有効。
妊婦
妊娠中は歯肉が腫れやすく、出血しやすい。
→ 妊娠中期(安定期)の歯科検診を推奨。
高齢者
唾液量の減少・義歯の汚れ・ブラッシング不足により炎症が起こりやすい。
→ 義歯の洗浄と口腔保湿ケアを徹底。
第13章 セルフチェックリスト
以下の項目に当てはまる場合、歯肉炎の可能性があります。
□ 歯みがきのたびに出血する
□ 歯ぐきが赤い・丸く腫れている
□ 冷たい水で歯がしみる
□ 朝起きたときに口がねばつく
□ 口臭が強くなった
□ 歯科検診を1年以上受けていない
2つ以上当てはまる場合は、早めに歯科医院を受診しましょう。
第14章 まとめ ― 歯肉炎は「戻せる歯周病」
歯肉炎は、初期のうちに治療すれば完全に治すことができる病気です。
しかし放置すると、歯を支える骨が溶ける「歯周炎」へと進行します。
大切なのは、「症状が軽いうちに気づく」こと。
健康な歯ぐきは、淡いピンク色で引き締まっています。
毎日のブラッシングと定期的なプロフェッショナルケアを組み合わせて、将来の歯の健康を守りましょう。

